kodokuforum’s blog

孤独について語り合う広場です。さみしい孤独もあるし、楽しい孤独もある。どんな孤独でもいいから、気が向いたときに読んだり投稿したりしてください。

ハイリゲンシュタットの遺書

          片山敏彦訳

(略)六年以来、私の状況がどれほど惨めなものかを!――無能な医者たちのため容態を悪化させられながら、やがては恢復するであろうとの希望に歳から歳へと欺かれて、ついには病気の慢性であることを認めざるを得なくなった――たとえその恢復がまったく不可能ではないとしても、おそらく快癒のためにも数年はかかるであろう。社交の楽しみにも応じやすいほど熱情的で活溌な性質をもって生まれた私は、早くも人々からひとり遠ざかって孤独の生活をしなければならなくなった。折りに触れてこれらすべての障害を突破して振舞おうとしてみても、私は自分の耳が聴こえないことの悲しさを二倍にも感じさせられて、何と苛酷に押し戻されねばならなかったことか! しかも人々に向かって――「もっと大きい声で話して下さい。叫んでみて下さい。私はつんぼですから!」ということは私にはどうしてもできなかったのだ。ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なものでなければならない一つの感覚(聴覚)、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私と同じ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで私が所有していたその感覚の弱点を人々の前へさらけ出しに行くことがどうして私にできようか!――何としてもそれはできない!――それ故に、私がお前たちの仲間入りをしたいのにしかもわざと孤独に生活するのをお前たちが見ても、私を赦してくれ! 私はこの不幸の真相を人々から誤解されるようにして置くよりほか仕方がないために、この不幸は私には二重につらいのだ。人々の集まりの中へ交じって元気づいたり、精妙な談話を楽しんだり、話し合って互いに感情を流露させたりすることが私には許されないのだ。ただどうしても余儀ないときにだけ私は人々の中へ出かけてゆく。まるで放逐されている人間のように私は生きなければならない。人々の集まりへ近づくと、自分の病状を気づかれはしまいかという恐ろしい不安が私の心を襲う。――この半年間私が田舎で暮らしたのもその理由からであった。

(略)たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。――私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。そのためこのみじめな、実際みじめな生を延引して、この不安定な肉体を――ほんのちょっとした変化によっても私を最善の状態から最悪の状態へ投げ落とすことのあるこの肉体をひきずって生きて来た!――忍従!――今や私が自分の案内者として選ぶべきは忍従であると人はいう。私はそのようにした。(略)

ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ハイリゲンシュタット、一八〇二年十月六日
 

 手紙の最初のページ
 二十代後半で聴覚を病み、日に日に聞こえなくなっていく苦しみを、ベートーベンはこんなふうに「遺書」に書き残している。
 

よく、耳が聞こえないことは音楽家として致命的なことだったので、ベートーベンはその苦悩ゆえに自殺を考えたのだろうと言われる。けれど実際のところ、この「遺書」が書かれた32歳より後にも彼は生き続け、『荘厳ミサ曲』や『第九交響曲』をはじめとする傑作をものしていった。楽の音は、すべて彼の脳や身体の中に生き続けていたのだ。

 彼にとっては、日常的に会話を楽しむことができず、そういう能力の欠如を人々に知られたくないということの方が、よっぽど絶望的なことだったんだね。そうして、「人々からひとり遠ざかって孤独の生活を」送るようになった。それは「まるで放逐されている人間のように私は生きなければならない」というほどつらいことだった。

 

そして、「1815年の秋以後は、他人との連絡はもはや筆談によるほかしかたなかった」(ロマン・ロランベートーヴェンの生涯』新庄訳)という。