ハイリゲンシュタットの遺書
片山敏彦訳
(略)たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。――私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。そのためこのみじめな、実際みじめな生を延引して、この不安定な肉体を――ほんのちょっとした変化によっても私を最善の状態から最悪の状態へ投げ落とすことのあるこの肉体をひきずって生きて来た!――忍従!――今や私が自分の案内者として選ぶべきは忍従であると人はいう。私はそのようにした。(略)
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンハイリゲンシュタット、一八〇二年十月六日
二十代後半で聴覚を病み、日に日に聞こえなくなっていく苦しみを、ベートーベンはこんなふうに「遺書」に書き残している。
よく、耳が聞こえないことは音楽家として致命的なことだったので、ベートーベンはその苦悩ゆえに自殺を考えたのだろうと言われる。けれど実際のところ、この「遺書」が書かれた32歳より後にも彼は生き続け、『荘厳ミサ曲』や『第九交響曲』をはじめとする傑作をものしていった。楽の音は、すべて彼の脳や身体の中に生き続けていたのだ。
彼にとっては、日常的に会話を楽しむことができず、そういう能力の欠如を人々に知られたくないということの方が、よっぽど絶望的なことだったんだね。そうして、「人々から
そして、「1815年の秋以後は、他人との連絡はもはや筆談によるほかしかたなかった」(ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』新庄訳)という。